Top page

ガバナーの略歴
■ガバナーからのメッセージ
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
     

05-06年度ガバナー月信
05-06年度地区組織一覧
05-06年度地区目標
05-06年度ガバナー公式訪問日程
Home
 
ガバナーからのメッセージ  <第10回>

「悟後の悟り・ロータリーは生涯学習の場」

 その人の人生においてロータリーと深く関わる人もいれば、ほどほどに付き合う人、ロータリーに席を置くだけの無関心の人もいるでしょう。人生とは何かという広く漠然とした問題に私は答えることは出来ません。しかし馬齢を重ねてきた自分の人生を省みて、なるほどこれが人生かとはっきり感ぜさせられるものがあります。それは私を一人の人間として育ててくれたもの、現に育ててくれつつあるものつまり出会いであります。私は自分一個の力で生きているわけではなく、自力で成長しているわけでもありません。さまざまの先人の残してくれた知恵、あるいは現在の先輩友人の導きによって人間となってきたわけで、特に私はロータリーで結ばれた友情に人生の人生たる証しを学ばせてもらっています。

 ロータリーは単なる偶然の出会いや、好き嫌いでなく組織立てられた友情です。ロータリアンは自薦してなれるものではなく、他のロータリアンから推薦されてはじめて会員となれます。ただ推薦されずにロータリーの会員になった人がいます。ロータリーの始祖ポール・ハリスその人です。
 では世界初のシカゴロータリークラブの第1回目の会合に出席したポール以下3人の会員はシカゴクラブのチャーターメンバーなのでしょうか。厳密に言えばチャーターメンバーとはRI加入前に選ばれた創立会員のことで、当時はまだRIもチャーター制度も無く、したがってチャーターメンバーとは言わず、4人には敬意を表して『パイオニア・ベテラン』と呼んでいます。

 ではわれわれは何故ロータリーに選ばれたのでしょうか。いうまでも無くロータリーの目的を実現するためです。そしてロータリーの目的には、疑いもなく職業倫理の高揚という一つの哲学があります。つまり我々はロータリーの職業奉仕の哲学を遂行するためにロータリーの会員になりました。
 ここに基本的な二つの問題があります。その一はロータリーにおける個人の問題であり、その二はロータリーにおける組織の問題です。第一に哲学をやるのですから、その基本的な主体は会員個人であります。またその活動は我々の日常生活から離れがたい、きわめて内面的なものになります。それは我々の考え方と行動の基本としての哲学であって、余暇に片手間にやればいいというものではありません。言い換えれば我々には本来の仕事があり、その外にロータリーがあると考えるのは間違っています。つまりわれわれの生活のある一部分にロータリーがあるのではなくて、我々の仕事や生活の基本がロータリー的でなければなりません。ロータリーの綱領の第三ははっきりそのことを示しています。
 第二に我々の哲学は、孤立していないということです。ロータリーにおける主体は、会員個人でありますが、その主体は《知り合いを広めていく》というロータリーの基本的な行動の一つを通して、他の会員と係わり合い、他の会員を増やしていくことによって、共通の目的と精神に立つ組織を拡大し、同時にそのことによって我々の職業奉仕の哲学を普遍のものとします。みんなで力をあわせ、その理想を達成しようというのがロータリーという世界的な組織の存在する理由であることを考えれば、それは容易に理解できましよう。

 職業奉仕の哲学の実践がロータリアンの務めと申しました。しかし、ロータリーの職業奉仕には他の奉仕部門(クラブ、社会、国際奉仕)と違い具体的な実践マニュアルがありません。ロータリーのマニュアル書である『手続要覧』の職業奉仕の欄を見ても《職業宣言》《四つのテスト》などについてわずか3ページ弱しか記載されておらず、全体の1%にしかすぎません。このことはRIが職業奉仕をないがしろにしているのではなく、ロータリアンは各人の業界から選ばれた人たちで、すでに入会前に職業奉仕の下地は常識として出来ている、だからロータリー入会後は例会で異業種の会員と切磋琢磨して更により良い職業人になることを期待されているのです。いまさら『手続要覧』で職業奉仕についてのべる必要はないのです。ロータリーの職業奉仕の実践は全てロータリアン個人の叡智に任されています。ロータリーのロータリーたる所以は生涯学習にあります。より良いロータリアンになるということは例会で自分の業界以外の会員と知り合い「己の限界を知り以って転機を生ぜしむる」ことが必要なのです。

 今申し上げたように、ロータリアンは入会前に自分の業界の中で職業奉仕の大切さを悟ったおかげでロータリークラブの会員に推薦されました。そしてロータリー入会後、今度は異業種の会員と交わり更に悟りの道を歩むことになります。禅宗では悟りの後の悟りを「悟後の悟り」、または「聖胎長養」といっています。ロータリーは職業人の「悟後の悟り・聖胎長養」の場なのです。「聖胎長養」とは、修行者が重ねて修業に努め、仏の威儀を長く保つということです。「聖胎」とは、仏となるたねを宿した身体の意です。禅宗では厳しい修行に明け暮れ、師匠の印加を受けた後もまた更に俗世界で修行する義務が課せられます。一度悟った後更に人間社会のさまざまな苦楽を実際に経験してその後布教が許されるのです。ごく卑近な例に例えるのなら、「聖胎長養」とは医学生の「インターン」に当たります。卒業後更に実践経験を積むのです。ここでもう少し聖胎長養について申し上げるとそれは「面壁9年」の達磨大師から数え6代目の慧能は、十数年山中での聖胎長養を師から課せられたことがそもそも始まりです。また日本の大燈国師は師の大応より26歳で印加を受けましたが、京都の五条の橋の下の乞食や非人の群れの中で20年の聖胎長養の後布教をするようにと云われました。時の後醍醐天皇は当代第一の禅者は大燈をおいてないということを聞き、すぐ会いたいと云われます。それは無理でしょう。彼は五条橋下の乞食の中にいますから。帝は使者を使って探させます。使者は大燈が昔から好物だった「まくわ瓜」を持って河原に行き乞食の群れに向かって「脚無くして来るものにこれを与えよう」といいます。乞食たちは呆然とします。そこへぼろぼろの衣を着た乞食が来て「手無き手でそれを渡せ」といいます。この一言で大燈は見破られてしまいます。この禅問答から大燈は後醍醐天皇に付きまとわれて、とうとう帝の建立する大徳寺へ迎え入れられることになりました。この話は創作でしょうが私の好きな話です。
 要するにロータリーは職業人の『悟後の悟り・聖胎長養』の場なのです。
 ロータリー入会前に培ってきた自己の人生学の集大成の場なのです。そこに欠かせないのが異業種の会員同志の精神的親睦なのです。政治、宗教、職業観、人生観など各人の信条は異なります。その違いを認め合うことがポール・ハリスの『寛容論』なのです。互いの違いを認め合い、更に高い次元に切磋琢磨してスパイラルしていくために『寛容の心』は欠かせないのです。

 さて4月は雑誌月間です。公式訪問先のいくつかのクラブでは雑誌委員の方が「ロータリーの友」を会員に配布する時、今月の見どころ、読みどころを丁寧に解説されていました。出来れば指導者のために年4回発行される「ロータリーワールド紙」やRIのウェブサイトの情報も積極的にPRしてください。クラブ活性化に情報は欠かせません。

 久しぶりに石庭で有名な京都の龍安寺へ行って参りました。案内のリーフレットに次の言葉がありました。
《禅とは「自己」を拝む宗教です》
《禅とは「自己」の自覚を深く掘り下げる宗教です》
 この禅という言葉をロータリーと置き換えてみたらどうでしょうか。
《ロータリーとは「自己」を拝む運動です》
《ロータリーとは「自己」の自覚を深く掘り下げる運動です》
 ロータリーも禅と同じく究極的には「自己」の仏性を磨く運動です。これは生涯通じて課せられたわれわれの義務なのです。最後にもう一つ皆さんもご存知の易経の《積善の家に余慶あり。積不善の家に余殃あり》という言葉を申し上げます。北国もいよいよ春めいてまいりました。どうかロータリーの皆さん、温かい奉仕の心を育んでください。



PAGE TOP | Home