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ガバナーからのメッセージ  <第8回>

[追悼記念週間]
ロータリー揺籃の地ウォーリングフォード


 会長・幹事さん、寒さ厳しき折からいかがお過ごしでしょうか。お元気の ことと存じます。1月27日を含む1週間はポール・ハリスの追悼記念週間 です。ロータリー新世紀を迎えた今、この運動の大河のような今日の姿を源 泉にまでさかのぼり、ロータリーの始祖はどのような過程でこの運動のアイ デアを得たのか探ってみることは、まことに意義深いことであります。創始 者の追悼週間を迎えて始祖の遺徳をしのびながらその心を今に活かしたい からです。そこで「月信9月号」でも少し触れましたが、今回は10年前、ポ ール・ハリス没後50周年(1996年)を機に訪れたロータリーの古里(ウォ ーリングフォード)の様子を拙著『ポールP. ハリスの足跡を訪ねて』より ご紹介します。
 【1947年1月27日、ポール・パーシー・ハリスは79年に亘る生涯をシカゴで閉じてから既に久しく、 50年の歳月を数えるに至った。かねてより、ぜひこの目でロータリーが生まれたニューイングランド の谷間を見たいと念願していたが、ポール・ハリスの没後50周年を機会にウォーリングフォードを訪 ねることにした。
 ニューイングランドといえば、誰もがメイフラワー号やピューリタン、ハーバード大学やボストン 交響楽団を思い浮かべる。ここはアメリカの歴史と文化を代表する地域である。ポール・ハリスは 1868年ウィスコンシン州のラシーンで生まれたが、3歳の時に父が事業に失敗したので、ニューイン グランドのバーモント州、ウォーリングフォードの祖父母の家に預けられた。ロータリー揺籃の地ウ ォーリングフォードには、ポールが愛した少年時代と変わらぬ四季折々の美しい自然と、祖父の「ハ ワード・ハリスの家」と彼が通った「赤い小さな学校」、コングリゲーショナル教会などがある。
 ウォーリングフォードに行くにはいろいろな交通手段があるが、オルバニー(ニューヨークの州都) 経由で行くことにする。ニューヨークのペンシルバニアステーションから、8時30分発のアムトラッ ク(日本のJR)のモントリオール往きに乗りオルバニーまで行く。車窓の左手には対岸の緑が霞む ほどのハドソン河が悠然と流れていて、ヨットハーバーが随所に見える。列車はひたすらハドソン河 に沿って北上を続ける。2時間後にオルバニー着、あらかじめ予約しておいたレンタカーで、北ハイ ウェイ7号線から9号線を北上してウォーリングフォードを目指す。バーモントは仏語で緑の山とい う意味で、6月のグリーン山脈の新緑は殊の外美しい。楓、柏の中に白樺が点在して、所々にサイロ が見え隠れするさまは、まるで北海道の緑豊かな富良野、十勝地方をドライブしているようである。 ハイウェイの両側に時々骨董品の店(アンティークショップ)が現れては消える。週末にはニューヨ ーカー達が大勢このアンティーク街道を訪れる。ここはヤンキーの故郷なのである。
 二本のグリーン山脈の間を走ること約2時間、行く手の右側にロータリーマークの立て看板が現れ た。愈々ウォーリングフォードに来たのだと心躍る思いがする。楓の街路樹が並び、古いが手入れの 行き届いた家が点々と散在している村のハイウェイを数百メートル行くと、教会通りの角にポールが 少年時代、日曜日ごとに礼拝に通った白いペンキ塗のコングリゲーショナル教会が現れた。続いてノ ースメイン通り沿い右手に祖父のハワード・ハリスの家を見つける。そして道を挟んでその真向かい に、ウォーリングフォードでの今夜の宿、「ビクトリア・イン」の看板がある。ニューイングランド には、歴史的由緒のあるカントリーインが各村々にあり、それぞれ快適なサービスを提供している。「ビ クトリア・イン」は1877年に建て替えられた3階建て木造で、フレンチスタイルの堂々とした邸宅を ホテルとしたもので、それ以前はポールの自叙伝によると、祖父の友人ウェブスターの店と住まいで、 祖父達80代の老人の唯一の社交の場となっていたところである。「イン」は若夫婦の経営で奥さんは 日本人と韓国人の2世で、ご主人は、ドイツ系のスイス人でなかなか腕利きのコックである。悪戯盛 りの男の子が2人いるが果たして彼らの血筋は何系に属するのであろうか、ともかくサービス精神に 溢れたインターナショナルな明るい家族である。ウォーリングフォードを訪ねられる方は、温かなも てなしと清潔で広々としたべッドと、ひなには希なおいしい食事のあるこの「イン」をお勧めしたい。 ただし客室は、大小合わせて5部屋である。さて、インで小休止していると、ウォーリングフォード RCの元会長のディビット・バロー氏と次期女性会長のアン・ラチユーカさんが迎えに来てくれた。 アン次期会長は、ご主人もウォーリングフォードRCの会員で、日本の向笠広次RI会長(1982-83)が、 ウォーリングフォードを訪れた際のクラブ会長だったそうである。親子2代のガバナー、同じクラブ で親子の会長の例はあるが、夫婦で同一クラブの会長を務めるというのは大変に珍しい。
 まず、ポールが初めてABCを学んだポール・ハリス記念館(親愛の情を込めて、赤い小さな小学 校と呼んでいる)を案内された。1928年創立のウォーリングフォードRCの現在の会員数は25人だが、 赤煉瓦作りのこぢんまりとしたこの平屋建ての建物が、ウォーリングフォードRCの例会場である。 もともとこの建物は、1818年にポールの曾祖父に当たるジェームス・ラステインが建てたものである が、1928年、ウォーリングフォードRCが属する第787地区が地区内各クラブから募金して買収し、そ れを1948年にウォーリングフォードRCに寄贈したものである。玄関のドアを入ると小さなテーブル がありその上に25人の会員の胸章が並べられていて、右側には、来訪者を受け付けるテーブルがある。 中は一間、6人掛けのがっしりとしたテーブルが左右に8台、これが教室であったとのこと実に質素 な部屋、何の飾りもない。しかし、周囲の壁には世界各国から送られたバナーが所せましと架けられ、 正面のガラスケースには、ポールの「わがロータリーへの道」の自筆の草稿や、海外旅行で贈られた ゆかりの品の数々の記念品が並べられている。中央にはポールが1935年にマニラでの太平洋地域大会 出席の途中、来日した際、米山梅吉から贈られた盛岡勇夫氏製作のポールの胸像が安置されている。
 ポール・ハリス記念館の1軒おいて隣ノースメイン通りの1849番地に、1853年に建てられたポール の祖父ハワード・ハリスと祖母パメラが住んでいた家がある。この家こそが、ポールが3歳の時より 大学に入学するまで過ごした、彼の人格形成の上でかけがえのない神聖な記念すべき家であった。ハ イウェイを車で行くと、スレート葺きの屋根にハワード・ハリスの頭文字"H.H" が、1世紀半の風 雪に堪えてきた為に色は少し薄れてきたが、大きく描かれているのが読みとれる。白い2階建てのシ ンメトリカルな美しい、風格のある家で、ポールの自伝には「わが家は大邸宅ではありませんが、そ れでも14部屋もあり…」と紹介されている。家の周りは美しく刈り込まれた緑の芝生で、道路から玄 関までの大理石の石畳の両側には、ピンクの芍薬が美しい。白い玄関のドアにも淡いピンクと白い花々 で作られたリースがさりげなく飾られ、ここに住む人々の心の優しさが伺われる。このドアのあるポ ーチがポールの祖父のお気に入りの場所で、晩年、夏の午前中祖父は決まって此処でぼんやり時を過 ごしたそうである。家の右奥に大きな白樺の大木がある。
 ポールが小さかった頃は、この白樺も小さかったであろう。ハリス家の果樹園や、野菜畑はあの辺 りだったのだろうか、またポールの寝室はこの窓の辺りであったのであろうか。いやが上にも想像は 高まり、遥かなる遠い昔、ポールの少年時代のエピソードの数々が頭をよぎる。かつての祖父母のこ の家には、ニューイングランドの古き良き時代の家庭を代表する素朴な美徳として大切な、犠牲心、 献身、名誉、真実、誠実、愛情という、後にロータリーの原点となった他人を思いやる家風と躾があ った。ポールが腕白時代を過ごした家の屋根の"H.H" の2文字を瞼にやきつけ、去りがたい気持ち を抑えロータリーの揺り籃、祖父母の家を後にした。
 ポールの少年時代、手持ち無沙汰の子供たちに一番人気があったのは「デポ(Depot)と呼ばれた 鉄道の駅であった。ポールは夜の10時になると祖父母の眠りにつくのを待ちかね、自分の部屋の窓か らそっと抜け出し、機関手に気づかれないように機関車の最先端(エプロン)に座り込み、暗闇の中 を近くのマンチェスター駅まで命がけの往復をした。その鉄道も廃線となって久しく、現在、消防署 となっている旧ウォーリングフォード駅舎を訪ねる。「ずっと昔のある夏の夜、父、5歳の兄セシル と2歳年下の私の3人でアメリカ東部のバーモント州、ウォーリングフォードで汽車から降りまし た」と自叙伝『わがロータリーへの道』の第1章にあるとおりポールにとっては、わが懐かしき故郷 の谷間に第一歩を記した記念すべき場所である。駅の側をロアリング川が流れている。橋を渡り林の 中の道をフォックス池ヘと向かう。エルフィン湖とも呼ばれるこの池は、かつてポールの叔父ジョー ジ・フォックスが所有していたことがあった。森に囲まれた美しい池は、ウォーリングフォードの子 供たちの格好のリクリエーションの場でもあるし、放牧された牛たちの水飲み場でもある。長さは南 北に1マイル、対岸まで半マイル、ポールが初めて泳ぎを覚えたところである。そして秋になり周囲 の木々が色づく頃、茸がたくさん採れるそうである。向笠広次RI会長がここを訪れたとき、子供たち がこの森で茸を狩りバーベキューをしてもてなしたそうである。
 次に村のはずれのウォーリングフォードの「グリーンヒル墓地」を訪ねる。なだらかな芝生が丘の 上まで広がり、近隣の山から切り出された大理石の大小の墓標が初夏の日ざしを受けて点々と羊の群 のようである。ハリス家のゆかりの人々の墓は、墓地のゲートをくぐり約50メートルほど真っ直ぐに 進み、そして右へ30メートルほど行ったところにある。その中でも高さ2メートルほどの、一際立派 な尖塔が目につく。それがハリス家の墓で、下の台座には、ハワード・ハリスとパメラ・ハリスの祖 父母の名前が記されている。両親と縁の薄かったポールは、祖父母をまたとなく慕っていた。後に彼 は人々に対する奉仕の新時代を開いたが彼の人格を形成し、そうした資質をポールに植えつけたのは 祖父母であった。その意味からも祖父ハワード・ハリスと祖母パメラ・ハリスの名は決して忘れては ならない。この二人こそロータリーの基礎を築いた功労者なのである。謹んで偉大な教育者の墓前に 感謝の祈りを捧げる。
 ニューイングランドの自慢は緑あふれたグリーン山脈と、四季折々に表情を変える湖沼の美しさで あろう。この田舎の美しさや田園生活の魅力に取りつかれた、作家、芸術家にはあこがれの聖地であ ったこともうなずける。ニューイングランドは、まさにアメリカの歴史と文化を代表する地域なので ある。ポール・ハリスは、自分の家系を辿るとピルグリムファザーズにまで遡るともらしたことがあ る。
 1620年メイフラワー号で新大陸にやってきたピューリタンたちは「丘の上の町」としてみんなが仰 ぎ見るような、教会を中心とした社会を作ろうとした。このイギリスからやって来た初期の移民は、宗 教、言語、風習も等しく、厳しい自然の中でまとまりのある社会を形成した。そして他人を頼らず、勤 勉と節約を旨とし発明好きで、進取的なヤンキー気質を持つ人間がここに生まれた。彼らは宗教や学 問と共に、こうした生活態度をアメリカ各地に広めようと勤めた。その結果ニューイングランドは、「丘 の上の灯台」として、文化的影響力を強め、もともと「ニューイングランド生まれの人々」を意味し た「ヤンキー」はアメリカ人の代名詞となった。ロータリーはこのような歴史的背景の中、ニユーイ ングランドの谷間で産声をあげたのである。再び自叙伝より…「長い人生を振り返ってみると、ある ときには重要だと思ったことが、年を経ると重要でなくなったり、また最初はたいしたことではない と思ったことが、後でこれはとても重要だと気がつくものがあります。犠牲、献身、名誉、真実、誠実、 愛情はニューイングランドの古き良き時代の家庭を代表する素朴な美徳として大事なものです」…】
 少し長くなりました。村の訪問記を書いたのは丁度10年前の6月のことでした。ウォーリングフォ ード村は村の地図を見ても130年前、ポールの幼少のころとあまり変わっておりません。200年前の教会 や150年前の住宅・民家がそのまま現存して使われていました。美しい自然も、もてなし好きな村人 の気風もそのままでした。この村では古き良きアメリカにタイムスリップできます。ポールはシカゴ の多忙な暮らしの中から、この村に帰省することを何より楽しみにしていました。ロータリー運動と は100年前の暗黒の街シカゴにおいて人々の心に潤いを与える、村の人たちのこまやかな人情、犠牲、 献身、寛容など、ピューリタンの訓えの復興運動でした。追悼記念週間に当たりロータリーの古里に 思いを馳せ、シカゴのマウントホープ墓地に眠る始祖のご冥福を皆さんとともにお祈りしましょう。

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