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ガバナーからのメッセージ <第12回>
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「和魂洋才」
昨年7月に会長幹事さんの皆さんと共にガバナーに就任して以来、早いも
ので一年の任期がもうすぐ終ろうとしています。おかげさまで無事に任期を
終えることができそうです。まことにありがとうございました。いよいよ私
の年度、最後のガバナーメッセージをお届けする時がまいりました。振り
返ってみると私は月信でロータリープログラムや定款細則についてあまり
触れませんでした。なぜなら地区にはそれぞれのプログラムのスペシャリス
トが地区委員長さんを務めておられます。したがって毎月の「強調月間」に
ついてはそれぞれの委員長さんにお任せして、私はロータリー運動の本質に
ついて東洋哲学を背景にして「ロータリーとは何か」をお伝えしてきました。
ロータリーはもともと20世紀初頭の資本主義の欠陥が溢れるシカゴを舞台とした中世キリスト教神
学(ピューリタニズム)の復興運動でありました。ロータリーには脈々としてピューリタニズムの
精神が流れています。それを私は東洋哲学の立場でロータリーの社会的意義を説いてきました。
ピューリタニズムと東洋哲学では、奉仕観の根底に違いがあります。月信の最終号にあたりその違
いについて考えてみました。
欧米では生活そのものがキリスト教の訓えの中にあります。食事の作法も東洋とは違います。以
前、目にした『パンはちぎって食べる』という小文を紹介します。
「(ヨーロッパのあるレストランで)我々の反対側のテーブルに観光客風の日本人のカップルが
座っていた。パンが来ると、男の方が丸かじりした。パンはちぎって食べよと日本でも言うけれど
も、小さなパンだと、つい、かぶりついてしまう人は今でも時折見かける。結局、マナーを暗記さ
せるだけだからいざという時に駄目なのである。何故かという点を子供達に教えないのは大人の罪
である。論理的に教えれば身につくのではないだろうか。何故ちぎるのか。これはキリスト教の《与
える喜び》《分かち合う喜び》である。がぶりついてしまうと、もしここに突然、餓えて死にかかっ
た可哀相な人が現れたら、口をつけていない方をあげることができない。だからパンは二つ割りも
しくは、小さくちぎって食べなさいということになる。即ち、かぶりつくと「品の悪い人」「育ち
の悪い人」どころではなく、もっと卑しいレベルの最低の人間と思われかねないのである。ここま
で、説明すれば人目の気になる日本人ならばすぐにこのマナーはマスターするであろう」
この小文を読んで、キリスト教ではパンはイエスの身体であり、最後の晩餐の席上で12人の弟子
たちにパンを取って賛美の祈りを捧げ、それを裂いてお渡しになったという歴史的背景があること
を知ります。
しかし、これはキリスト教の歴史に裏打ちされたマナーです。東洋には無い一神教世界の文化で
す。東は東、西は西という言葉を実感します。
キリスト教の根底にあるのは「禁断の木の実」を食べたアダムとイブの原罪説です。ピューリタ
ニズムでは堕落した人間はどんなに修養を重ねても許されません。彼らにとってこの世は涙の谷で
あり、やがて終るべき旅路に過ぎません。
しかも彼らは神の栄光を増すためにこの世を少しでも神の国に近づけようと努力するし、それが
神に許される証となるのです。こうしてこの短い人生の旅路はやがて終るのだから我々は昼のうち
に仕事をしておかねばならないという緊迫した気持ちを生みます。この世の楽しみを捨てて、全て
を隣人愛の実践に捧げねばならないという巨大なエネルギーがほとばしり出ることになりました。
そして経済活動を、神の栄光を讃え隣人愛を実践する手段と考えました。これが「ボケーショナル
サービス」、職業奉仕の原点なのです。ロータリーの奉仕観にも、背景には「罪を詳らかにし、ま
た許す神」との緊張感があります。
一方日本の社会は東洋哲学(儒教・仏教・神道)が人々の生活を律してきました。
特に儒教ではこの世と人間との関係は徹底した楽観主義に立っています。つまり儒教の考え方に
よると、この世はさまざまな世界のあり方の中で最上のもの、そしてピューリタニズムとまったく
逆に、人間の本性も善であり、修養すれば仏にもなれます。儒教の目指す人間の理想像は君子とい
う表現で示されます。君子は徳が高いといわれていますが、それは道に従うことであり、この道と
は一定の理法に従う世界秩序のことです。つまり人倫の道に従うことがこの世で目指す理想となり
ます。儒教ではそうした外面的な作法、世間体を出来るだけ守り、そのために自分を抑制します。
ロータリーの災害救援寄付も会長さんが1,000円出すなら皆も右へ習えで、皆1,000円を寄付します。
もちろん各種の奉仕プログラムにも皆協力します。その意味において日本は世界第2のロータリー国
であり、大きく国際ロータリーに貢献しています。しかし奉仕の動機に贖罪といった意識はありま
せん。信ずる宗教の違いにより奉仕観に温度差があるのも事実でしょう。儒教での罪は秩序と調和
を破ることであり、それは償いうる過ちであって、キリスト教の原罪といったものとはあまりにも
遠くかけ隔っています。
このようにロータリーに対する接し方も、神の有無によりおのずと違いがあります。まず用語で
すがロータリーで一番頻繁に出てくるものは「奉仕」という言葉でしょう。英語のサービスとは神
に仕えることです。今申し上げたようにキリスト教の国では神に仕える奉仕という言葉に抵抗感が
ありません。なぜなら神が生活に密着しています。しかし日本では神社仏閣などでは清掃奉仕とい
う言葉を使いますが、人との助け合いは奉仕とは云いません。日本語で奉仕と言うと、「値引き」
「サービス品」といったイメージが先行して奉仕という言葉はどうしても馴染めません。神への贖罪とい
う概念が無いからです。奉仕の実践そのものよりむしろ「天地の理法」を学び自己を練磨すること
がロータリーの目的と考えます。そもそも日本のロータリーは1920年、背後にあるピューリタニズ
ムをそっくり抜いてアメリカから取り入れられました。しかしあらゆる文化的価値を追求する団体
には背後に宗教・哲学といった純度の高いものの考え方が無ければ成り立ちません。日本ロータリー
の黎明期、東京クラブのメンバーは米山さんを始めみな明治の士(さむらい)でした。みな東洋哲
学は身に付けております。ロータリーを推進していく上で欠かせないものはそれぞれの国の宗教に
裏打ちされた戒律、道徳、倫理観です。彼らはロータリー運動を推進するに当たり馴染みの薄い
ピューリタニズムに換えて東洋哲学を当ててロータリーを理解したのです。幸いロータリーの「隣
人愛」はあらゆる国の宗教に内包された概念です。ただしキリスト教と仏教では根源的に「隣人へ
の愛」はとらえ方が違います。キリスト教は根源的なものとして神を立て、神は愛を持って人間を
作られたのだから、自分と同じく神の愛によって作られた隣人たちを愛して行かねばならないので
す。
仏教はこれに対して根源に無我をおきます。我が無いということは自分と他人は2つでない、「自
他不二」すなわち同じということです。自分も生きとし生けるもの一切の衆生も同じであるという
認識から「一切の衆生を慈しめ」と慈悲の心を説きます。
明治維新政府は、近代国家を目指して西欧の科学の原理や文化、政治、経済の仕組みを積極的に
取り入れました。それらは神との緊張関係の上に成り立っていましたが、ロータリーと同じように
明治政府はそれらの背後にある宗教・哲学をすっかり抜いて導入しました。代わりにそれらの背後
に東洋哲学を置きました。そして西欧の文化を日本化して咀嚼することに成功しました。これを「和
魂洋才」といいました。しかし第2次大戦後GHQにより日本の過去はすべて悪かったのだという
空気が醸成されてしまいました。日本人は自分たちの過去、歴史にすっかり自信を失ってしまい、
自分たちの文化、伝統、歴史を肯定的に捉えられない雰囲気が蔓延していったのです。日本人の心
から東洋哲学が希薄となりました。哲学を失うと人は眼の無い魚のようになり自分がどこへ行くの
かまったくわからなくなります。ただ現象を追って波間を漂うことになります。倫理、道徳、修身
を忘れかつての「和魂洋才」が消えて、今は日本中「無魂洋才」の時代となりました。今、一番大
切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることです。善く生きるためには自分の
成すべき事と為すべからざることを知らねばなりません。それを教えてくれるのが、宗教、哲学、
道徳なのです。日本人の心の荒廃を憂います。
国際ロータリーもロータリーを興隆に導いてきた職業奉仕の哲学を捨てて、自ら人道的国際ボラ
ンティア団体、また世界最大のNPOであると宣言して久しくなりました。ロータリーの金看板で
ある職業奉仕の無いロータリーは魅力を失い会員は減少しました。文化的価値を追求する団体は良
質な哲学を失うと瓦解してしまいます。しかし幸いにも制度疲労を起こしていた国際ロータリーに
偉大な救世主が現れました。タイ国のビチャイ・ラタクル元RI会長は「奉仕の新世紀」にあたり、
国際ロータリーが久しく無視してきた「職業奉仕」の再構築を強く訴えられました。タイは敬虔な
仏教国です。ロータリーを自己改善の精神運動ととらえる日本人にとって仏教徒ラタクルさんの勇
気ある発言は永い間待ち望んでいたものでした。
日ごろご指導いただいている2500地区の道下PGの昨年の賀状に、「何とかロータリーの栄光をも
う一度取り戻したいものですね」と書かれていました。私も同じ思いでした。しかしラタクルさん
のおかげで再びロータリーは過去の栄光を取り戻すことが出来ました。ロータリーの栄光とはロー
タリアンがロータリアンであることに誇りを持つが故に、ロータリーの職業奉仕に心から心酔し、
謙虚にロータリーを学び、ロータリーの綱領を日常生活で実践していた良き時代のことです。その
ために今、我々に課せられた務めは、現代社会から失われつつある東洋哲学を家庭生活に、職場に、
地域社会に再構築することにほかなりません。
最後になりましたが、会長幹事の皆さんが益々ご健康で、今後のクラブ発展のために更なるご活
躍されることをご祈念申し上げペンをおきます。
お世話になりありがとうございました。
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