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ガバナーからのメッセージ  <第9回>

「仮面(ペルソナ)を脱ぐ場所・ロータリーの例会」

 北国にも日一日と春の兆しが見えてきました。早いもので季節のうつろいと共に私も会長幹事さんの任期もまもなくローテーションします。あと3ヶ月、年度当初の活動計画をチェックしてください。そして次年度の会長幹事さんへの引継ぎ準備をお願いします。

 3月13日を含む1週間は世界ローターアクト週間として、アクターと提唱クラブがともに共通の活動に参加するように求められています。
 ロータリーはクラブという組織があってこそ、その目的が達成されます。同じようにローターアクトクラブ(インターアクトも同じ)は次代を担う青年男女がロータリークラブと同じくクラブ制度の長所を活かして自己研鑽のため、奉仕活動をする目的で生まれました。ローターアクトについては地区の担当委員長さんにお任せして、今月は「クラブ」について若干考察してみましょう。ではクラブ制度とはそもそもどのようなものでしょうか。人は一人では切磋琢磨できません。仏道を修行するにも叢林、僧林という言葉のとおりおおぜいの仲間が必要です。志を同じくする励まし合える同志が必要です。クラブ例会への出席は、これらのことをかなえてくれます。
 クラブという団体は主にアングロサクソンの間で社交機関として発達しました。
 古代ギリシャやローマ時代に類似の組織はありました。17世紀には、シェークスピアも会員であったブレッド・ストリート・クラブが生まれ流行のさきがけとなりました。歴史の無い国アメリカでは、クラブへの所属は、家柄や血筋に変わって身分の保証となりました。そのほかクラブは孤独を逃れ気の合った仲間と会いたいという集合欲をはじめとするさまざまの欲求(音楽、劇、スポーツ、コレクション、慈善など)を充足するだけでなく、家庭の代用ともなりました。クラブの要件の一つに会員のレベルの共通性が挙げられます。また本質的には親睦を目的とする活動でありわが国でも頼母子講、市町村の青年会も本質的にはクラブです。国際的な組織として、特にロータリーは会員同士の親睦の上に奉仕の理想を実践するクラブなのです。クラブにも統制力の強いもの、また比較的統制力のルーズなものがありますが、ロータリーは会員相互のアイデアの交換に重点を置くため出席に厳しく、統制力の強い組織です。ロータリーはクラブという制度を巧みに活用して世界170カ国に発展してきました。

 先ほどクラブ制度の長所は志を同じくする仲間の切磋琢磨ということを申し上げましたが、もう一つ大事なことはクラブの会合で、本当の自分自身に帰ることです。
 我々は普段「ペルソナ=仮面」をかぶって生活しています。ペルソナとはもともと演劇で役者がつける「仮面」を意味するラテン語で『人格・性格』を現す英語の「パーソナリティ」の語源です。人は「仮面」をつけることによって自分の素顔(内面)を人目にさらさず自我が守られます。社会の一員として生きていくため場面に応じて複数のペルソナを「役割」として使い分けます。人は「いくつもの取り外しの聞く顔」を持っています。社長としての顔、父親としての顔、夫としての顔など成長するに従い、人は社会の人々の期待する人物を演じるようになります。逆に言えば、社会生活を営むためには適切に自分を演じる必要があります。これらは全て自分の外側で演じられます。つまり自分の内面と外面の間に存在する仮面といえるでしょう。無論その仮面は社会生活を営む上で重要かつ必要なものであるからこそ身についたもので、今後も大切にしていかなければならないものが含まれています。ただしそのペルソナによって自分の本質が強く押さえ込まれている場合があることを知っておくことが必要です。
 あなたのペルソナが強ければ強いほど、自分の本質を押さえ込み、仮の姿で現実を生きていることになるわけですから、あなたにとってそのペルソナが重要であればあるほどペルソナを外すことは難しくなります。ペルソナはいうなれば身につけていれば生きやすくなるものです。しかしペルソナの持つ役割に支配されてしまえば本当の自分を見失ってしまいます。全ての人間は自分で自覚していない素晴らしい能力を持っています。日々の生活の中では、自分を見つめ、自分を知り、評価することは不可欠で、時には仮面を外して自分自身の真実の姿を鏡に映してみることも大切なことです。真実の自分を探すことで、自分を活かし、他者を活かす知恵を知り更に組織や社会で自分の果たすべき本当の役割について学ぶことが出来ます。

 ロータリーの例会は仮面を脱ぐ場所なのです。例会場の入り口で、浮世で身につけたもの、すなわち企業の大小、社会的地位や、名誉、金銭の多寡などを脱ぎ捨てて例会に臨みます。ロータリアンは資本主義の厳しい競争社会の職場から例会に出席します。ロータリーの例会場は唯一競争の無い空間なのです。この平等で競争の無い空間に身を置きますとロータリアンの心はリフレッシュして少年の心に戻ります。ポール・ハリスは例会の一時間は子供に返り神様になる時間だといいました。社長業を長く続けると社長の顔しか出来ない人が出てきます。いわゆる社長病です。役割に応じて視点を変えることは必要です。
 しかし子供の視線でしか見えないものもたくさんあります。ロータリーの例会は仮面を脱ぎ、純粋な少年時代の自分自身に戻り、見失った自分の内面と対話することなのです。  ポール・ハリスは自伝の中で「大都会シカゴの小さなグループに集まってきた会員には、ロータリーは丁度砂漠のオアシスのようでした。会員は会場の入り口で肩書きをはずし、皆もとの少年に戻るのです。私にとってはクラブの集会に出ることは、故郷の谷間に帰るのと同じことでした」と述懐しています。

 人間の本質は洋の東西を越えて変わらぬもので、ポールの述懐と同じく、禅の訓えの中にもペルソナを脱ぎ本来の自分自身を取り戻す方法が伝えられています。中国の宋の時代、古来より伝わる公案を取り上げた無門関という一巻があります。その中で瑞巌老師の「主人公」という挿話があります。老師は毎日毎日、「おい、主人公よ」と自分自身に呼びかけて、「はい」「はっきり目覚めているかね」「はい、はっきりしています」と自問自答したといわれます。
 自分自身が「主人公」なのは当たり前なのに、それをわざわざ主人公と呼びかけるのはユーモラスです。しかしよく考えてみると私たちはいつも日ごろ仮面をかぶっていて、いついかなるときでも本当の自分自身、「主人公」であると言えません。このように「主人公」とは、実は私たち一人ひとりの主体性、人間性のことです。その主体性が常にしっかりと確立し、人間性にはっきり目覚めていること、それが「主人公」であるということなのです。そう考えるとなかなか「主人公」であるということは容易なことではないとお分かりいただけると思います。私たちは、ややもすると、周囲に影響されて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ふらふら、うろうろしてしまいます。また、ともすれば自分の人間性を見失っているのが現状です。ですからまずこの「主人公」をはっきりとさせ、不動のものとしなければなりません。瑞巌老師のエピソードは確かにユーモラスですが、しかしひるがえって反省してみると、果たして今日どれほどの人が、自ら「主人公」と自信を持って問いかけ、「はい」と答えられるでしょうか。

 人は時には仮面をはずして自分自身の真実の姿を鏡に映してみることも大切なことです。人間が成長する過程では、自分を見つめ、自分を知ることもまた不可欠なことで、真実を知ることは同時に自分のペルソナを知ることであります。その意味でロータリーの例会は人生の道場であり、ロータリアンが仮面を脱ぐ場所です。もう数ヶ月すると私もガバナーの仮面をはずし、クラブの一会員として少年の心に戻りささやかながら奉仕の道を歩みたいと思います。

参考引用文献 有馬頼底(茶席の禅語)


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