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PolioPlus
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このページでは、毎回様々な視点でポリオを特集した情報をお届けします。
ポリオは遠い国だけの問題ではありません。
かつて日本でも多くの子どもや親たちがポリオに苦しんだ時代がありました。

第1回目は、医師で詩人の故河邨文一郎氏(当地区パストガバナー)がポリオについて書かれた記事をご紹介します。(ロータリーの友1988年7月号より)
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登別厚生年金病院院長 河邨文一郎(札幌西RC)

ポリオ・プラスの募金は順調だが、すべてのロータリアンが燃えているとも言いきれない。先進国ではわが日本をふくめて、1960年代以来ポリオはほとんど発生しなくなり、その悲惨さを目にせず成人した国民が大多数を占めているからだ。
つまり、ポリオの恐ろしさを耳学問で覚えても実感が湧かないのだ。
ポリオの疫学や臨床像を分かりやすく述べ、もしそれによって読者に実感を植えつけることができたら、というのが私がペンをとった動機である。長い年月のポリオ診療の体験の中から大切なことを抜き出してみよう。
ポリオは古代エジプトの昔から流行を起こすマヒ性伝染病として恐れられてきたが、病原ウイルスが発見されたのは1948年、アメリカのエンダースらの組織培養の成功によるもので、これがポリオ制圧の夜明けとなった。

<中略>

1960年の北海道でのポリオ大流行の思い出は私にはいまも生々しい。最初に山間の炭鉱町大夕張で診療した帰途、小さな一輌の炭鉱列車で危険な崖づたいに山をおりたとき、追いすがって乗りこんできた数十人の母親たちの訴えと泣き叫びに取りかこまれた。それはまさに“涙の坂”であり“嘆きの汽車”であった。また、同じ大夕張の炭住街で“小児マヒ患者の家”と書いた紙が軒々に張られたり、一切の集会が禁止される事態を目撃したときのショックも大きかった。
すでにウイルスに侵襲されたのに気づかず、夕張から農村の親戚に“疎開”するとすぐ発病し、その地の流行に拍車をかけたケースもある。
鉄の肺*の不足からみすみす死んでいった子供たち、アイゼンハワー大統領が米空軍に輸送を指令し、4台の鉄の肺と12台の胸当式呼吸器が千歳空港に到着したときの感激、ワクチン輸入や使用をめぐる官僚的、あるいは党利党略的な数々の腹立たしいトラブル…悪夢のような2年だった。しかしながら発展途上国ではいまも、どこかで、同じような混乱と父母の号泣の声が渦巻いているだろう。
ポリオ・プラスは、ポリオを乗り越えた国々の人々からの、いまなおその渦中にある国々の人々への贈り物だ。さらにはこれから生まれてくる全世界の子供たちへの私たちの贈り物である。かれらがすこやかに仲良く育ち、平和な地球社会を創り上げることを願い、ぜひこの大事業を成し遂げようではないか。

*鉄の肺/ポリオにより呼吸に必要な筋肉を犯された患者を収容する人工呼吸機の一種。

全文は右のアイコンからpdf版をダウンロードしてご覧ください。 DL


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